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終了報告

 投稿者:末延芳晴  投稿日:2018年 8月 6日(月)23時03分42秒 softbank126091120235.bbtec.net
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  報告が大変遅れて恐縮ですが、5月と6月と7月の「9の日・9条・ハンスト・イン」、いずれも終了しています。

73年前の今日、すなわち1945年8月6日午前8時15分、人類史上初めての原爆が広島に投下され、推定で9万から12万人の広島市民が
犠牲となって亡くなられました。

亡くなられたすべての犠牲者と、そのあと原爆症に苦しみ命を落とされた方々のご冥福を祈るとともに、一日も早く原爆のない世界が実現することを願ってやみません。

ところで、73年前の8月6日、爆心地より1.2キロ離れた実家の便所のなかで用を足しているときに被爆、本来なら即死していてもおかしくなかったのにもかかわらず、便所が狭く、四方が壁と扉に挟まれていたことで、一命をとりとめた小説家がいます。1932(大正12)年に慶應義塾大学文学部を卒業し、「三田文學」に小説や詩を発表する中、広島市内の実家に疎開してきて被爆し、その時の体験を『夏の花』という小説にまとめた原民喜という小説家です。

その原民喜の原爆体験と、1910年の4月から1915年の4月まで、原が卒業した慶應義塾大学文学部のフランス語とフランス文学の教授として後進の指導に当たっていたことがある永井荷風の、同じ45年3月10日、日、米軍機による空爆で家(偏奇館)を焼かれ、焦土をさまよい、九死に一生を得た体験は、共に、この世の終わりに等しい地獄を体験し、それぞれにその体験に基づいて、一方は『夏の花』という小説を、もう一方は、『断腸亭日乗』という日記を書き残したことで共通し、呼応しあっているように見えます。

この直接的には関係のないまま、戦争がもたらした黙示録的地獄を体験した二人の小説家の「呼応」し合う関係性について、先週、ようやく書き上げ、今年の12月に集英社から新書として刊行予定の『慶應義塾大学部文学科教授・永井荷風-もう一つの顔』の最終章「永井荷風が慶應に残したもの」のなかで、以下のようにまとめてみました。興味のある方は読んでみてくください。

*****************************

永井荷風の空襲体験と原民喜の原爆体験

 さて最後に荷風の直接的影響というわけではなく、ある種の結果的共鳴、あるいは呼応という形で、荷風が慶應義塾文学部のために残したものとして触れておきたいのは、昭和二十(一九四五)年の春、荷風が、米軍機の空爆による未曽有の大空襲によって被災し、偏奇館を焼かれ、蔵書の全てを焼失し、着の身着のまま焼け野原をさまよったことと、それより五か月後の八月六日、昭和七(一九三二)年に慶應の英文学科を卒業し、詩や小説を「三田文學」に発表していた原民喜が、疎開していた広島市内の実家で、同じく米軍機による人類史上初めての原爆投下で被災し、家を焼かれ荷風と同じように着の身着のままで、焦土化した市内をさ迷い歩いたことで、二人が共に地球の終焉を思わせる地獄を体験 したこと。そして、それぞれの悲惨を極めた体験・見聞とそのときに抱いた思念や感懐を、荷風は日記『断腸亭日乗』に、民喜はカタカナ書きの詩『原爆小景』や小説『夏の花』に書き残したことで、本人たちの意志を越えて二人がつながることである。

 永井荷風と原民喜は、原が慶應義塾大学文学部に入学したのが大正十三(一九二四)年と、荷風が慶應義塾文学科教授を辞任したときより八年ほど遅れているので、直接的師弟関係はない。また、生涯を通して、社会の周辺/底辺、あるいは外側に生きる芸妓や娼婦、私娼婦とのみ性的関係を有し、前述したように慶應義塾の文学科教授時代に、堅気の商家の娘と結婚したものの、新婚生活と同時進行で二人の新橋芸者との交情に溺れ込み、結局半年足らずで新妻を離縁。さらにそののち、新橋芸妓の八重次と再婚するものの、半年後に八重次が家出をし、結局離婚。以来一度も結婚しなかった荷風に対して、原は、見合い結婚ではあるものの、同じ広島県出身で、奇しくも荷風と同じ姓の永井貞恵という女性 (のちに文芸評論家となる佐々木基一の姉)と結婚、深い愛の関係で結ばれている。

 しかし、原民喜をして、「私の書くものは殆ど誰からも顧みられなかつたのだが、ただ一人、その貧しい作品をまるで狂気の如く熱愛してくれた妻がゐた」(「死と愛と孤独」より)とまで書かせたその妻は、昭和十九(一九四四)年、糖尿病と肺結核で死去。それまで献身的に看病に努め、臨終を看取るなどして愛の関係を貫き、死後、貞恵との思い出を『忘れがたみ』、そのほか、いくつもの回想記やエッセイに書き残し、最後は先だって逝った妻に殉ずるようにして、鉄道自殺によって自らの命を絶った原民喜は、人間的資質から文学者としての生き方、さらには書き残した作品から表出されてくる世界そのものも、荷風のそれとは百八十度違っている。

 にもかかわらず、「鎮魂歌」に詠われた「僕は堪えよ、静けさに堪えよ。幻に堪えよ。生の深みに堪えよ。堪えて堪えて堪えてゆくことに堪えよ。一つの嘆きに堪えよ。無数の嘆きに堪えよ。嘆きよ、嘆きよ、僕を貫け。帰るところを失った僕を貫け。突き放された世界の僕を貫け」という、悲痛な決意と覚悟の表明は、東京大空襲によって「帰るところを失った」のにもかかわらず、明石、岡山へと苦難の疎開行を続け、悲惨な現実に「堪えて堪えて堪えてゆくことに堪え」て、『断腸亭日乗』を書き続けた荷風の決意と覚悟に通じるものであった。

 文学者が文学者たるゆえんが、そして文学者が人間に対して人類に対して果たすべき使命が、この世に現出した地獄にも等しい悲劇を自身で体験し、冷徹、かつ透徹したまなざしで見据えた現実とその奥にあるものを言語によって書き残すことにあるとするなら、永井荷風と原民喜はまさにその使命を果たした文学者であった。少し大げさな言い方になるかもしれないが、日本民族を滅亡させたかもしれない二つの大惨禍の現場に、永井荷風と原民喜という慶應義塾とかかわりの深い文学者が、歴史に対する証言者として立ち会い、そこでの正に九死に一生を得るに等しい体験・見聞を後世に書き残してくれたことで、日本の文学は救われたといってもいいかもしれない。

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